昭和46年10月18日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
金光様の御信心を頂いて、昨日のは十一節でしたね、神は天地の守りじゃから離れる事は出来ぬぞ、今日は次ぎの十二節、いわゆるお道で言う金光教祖が頂いておられた神様と言うのは、こう言う神様だと言う訳ですね、けれどもこう言う様なところが有ります、私も中々難解ですからわかりませんけど、こんど新たな金光大神御理解にこう言うところがある、読んでみましょう。
金の神と言えば親神じゃに依って、何事でも氏子が願う、とある事なら、守りてやる、普請作事を仕様が、家相地相、家の相地の相ですね、等を見て、金の神の明き方、まあ金の神の、その当時、金神様がどの方角に行ってござる、こっちの方が明いとると言う様な意味ですね、金の神の明き方、留守をねらいたがるによりて安心になる、神と神と言うて道理は同じ事、いつでしたかね、私が頂いた神と皇上との身と思い知れよと言うのがあった、あの神が書いてあります。
いつか私が言うた事と同じ事をやはり言うておられます、神と皇上とは同じ意義だと言う事、これは余談ですけども、今日はそう言う風に出ております、神と皇上と言うて道理は同じことぞ締りをしょうが願いをしあればあの方へまわりて、今日ござると言うても小屋の中へ締まりに来て、下さるも同然じゃ、神も氏子が願いをかけて見りゃ、例へ廻り合わせの方角じゃと言うても許して守りてやる。
方位と言えば、建物の在る方がふさがり、建物の無い方が明き方ぞと、家相は氏子の都合の良きが、よい家相じゃ三燐亡といえば、倒されると言うて恐れようが、神をたばかるによって、二丈下から地に動きを付けるに、依って倒れるのぞ、神に取り縋りて見れや倒す位な神じゃによって、又引き起こしてもやる、今日はこれでおしまい。原文のままですからね、私もこれ読ませて頂いて、今初めて読んだ訳ですけれとも、なかなか難しくてわかりません。
わかりませんけれども、これはいつの時代かわかりませんが、金の神と言えば親神様と言うておりながら、神の明き方、矢張りあの金神説で言うところの金神封じをしたり、金神さんに向こうて行ったり、こちらへ向いて行けば金神様、こちらへ向いてござれば空いてござる、だから向いて行ったらこわいから、空いてござる方をねらえと言った様な、事があるらしいです、今でもそんな事をやる人があります。
だからそれをそう言う事はないと言っておられます、又は三燐亡の事などにもふれておられます、ですね、三燐亡と言えば倒されると言うて恐れようが、神をたばかる位によって二丈下から地に動きをかけるによって、倒れる、これは大変に意味の深い事じゃろうと思います、ね、一寸私も分かりませんです、二丈下と言うのは地下を二丈下と言うのでしょう、二丈下から神様の働きと言った様な、神に取り縋ってみりゃ、倒す位の神様じゃによって、又引き起こしてやる、と言う様なことに説いておられます。
それを今日この十二節の中、だからなるほどお道の信心では戸口そのものが、いわゆる神様としておられます、金神、金の神と言えば親神じゃと、親神様と天地を合わせて天地金乃神様と称号、となえさせておられます、ですから今日の十二節から言うと、ここんところを非常に言わばこくめいに天地金乃神様の性格と言うものを、言い表しておられる訳で御座います、
けれどもそれがなかなか難しい、天地金乃神様、これは私どもが現在に於いても、天地金乃神様と言う事は、神に会いたいとおもえば外に出て見れば、もう仰ぐところが神、自分の足もとが神様、そこんところ自分の足もとの二丈下までは、神と言う事を言うておられます、二丈下と言うのはもう天地そのものと言う意味でしょうね、ですからそう言う神様を例えば知っただけではいけん、ほうそう言うものかなといわゆる会うただけではいけん、神に会うと思えばと仰る、神様と会うただけではいけん。
そう言う意味で私は毎朝ここに出てから天地を拝ませて頂く訳ですけれども、天地に縋りて見りゃと言うとられますね、会うただけではいかん、例えば向こうから来よるもんと、こちらから来よるもんと、びったりこう会う、会うだけこれがすれ違うたら何もならん、会うたらねそこで縋って、縋りて見れと仰る、縋って見なけりゃいかん天地を矢張り拝まれ頂かにゃいけん、拝んだだけじゃいかん、縋って願って見なけりゃいかん、でないと神様が神様とわからん、いや神様でなくて、神様の働きがわからん。
神様の働きがわかるという事は願って見りゃと仰る、願うと言う事、によってそれに答えて下さる、甘木の初代のお話の中に、神様は御座るやら御座らんやら分からん、金光様と言う神様とはどう言う神様ですかと、言うて参って来た信者があった、天地が神様ですよと教えてやられても、ああそうですかと言う様な、そうですかでは、何もならんと言う事、それで例え家の事でもです。
門の締まっておっても中に人が居るかいないかは、まずこちらから、どうれと言う声を掛ける事によって始めて中に人が居るならば、門を開いて通してもくれる まずその門を叩かねばいけない、と言う様な風に教えておられます。神に会えても会えただけではいけない、知っただけではいけない金光様の信心は天地がそのまま神じゃと言うても、その神に縋らなければならん、願わなければならん、そこから例えばここではですね。
今まで金神封じをしたり金神の留守をねらって、行くと言った様な御無礼な事ではない、そう言う御無礼な事をするから、お気付きを頂くと言う意味の事がありますね、ですからお気付けをくださる程の神じゃから、言わば三燐亡は倒されると、こう言う様な表現です、そう言う御無礼な事をするから、倒されるのじゃと、倒す力もあるから、起こす力もあるぞと言う風にここでは言うとられます。
これのところは本当に表現が実にその素朴な表現をなされておられます、けれども大事なとこだと思います。倒すだけの力のある神じゃから起こす事も出来ると言う事は、願って見よと言う事なのであります、困った時に神様お願いしますと願って見よ、天地に対して願って見れ倒す事も出来るから、起こす事もできるとこう言う、なぜ倒すかそれは言うなら神の明き方、明き方を選ぶからです、こちらは明いてござると言う様な、それが御無礼じゃと、天地が生きてござると言う印しを理屈で言えばすぐ分かります。
天地の中にある一切総べてのものを生かさなければおかんと言う働きがある。一切を生かす働きその証拠には、例えて畳みの上に種を撒いても芽も切らんけど、大地に下ろすとそこから芽を切る、又はそれが花であるならば、花も咲く、そう言う生かさなければおかんと言う働きがある、ですから私どもの心もです、矢張り生きて居らなければ天地が生き通しであるならば、私どもの心も生き通しに生きとらねばいけない、成程こうやって生きておる、生きておるけれどもね。
心が生き生きとして生きておらねばならん、心が枯れたも死んだも同様の事では、その天地に会うても会うただけである、例えて言うと枯れた木が如何に天地に手を差し伸べておりましても、それを伸ばすことも出来ないでしょう、葉は落ちてしまう枝は枯れてしまう、いわゆる付いておった葉も落ちてしまう、花はしぼんでしまう、その枯れた心でです神様助けて下さいと言うても駄目なのです、だから信心とはね氏子が生き生きとさせる、生かすところの働きとする道を教えて下さるのが信心だ。
如何に庭の口をでれば神様が御座ると言うても、空が神下が神と言うても、ああそうですかと分かっただけではいけない、それから信心がいる。不思議に皆さん朝こうしてお参りなさる冷気にふれる、冷気とは寒い様なものを感じる、冷たい水の中に手を付けると、ああ冷たいとこう思う、ああ冷たいと、今日はちよっと寒いなと膚に感ずる、そう言う心がです、生きた心なのです、麻酔をかけたりなどしますともう寒さ暑さどころではありません、痛い事すらわからなくなってしまいます。
ですから私どもはね痛いとかんずる、寒いと感ずる、冷たいと感じれる、水の中に手をつけばああ冷たいとこう思う、そう言う心が生きた心なのです。その生きた心で天地に願う、天地に縋る、天地が生きて御座る、皆さんが朝お参りさして頂く時に、ああ寒いな冷たいな、暑いなと感じる時です、もうその心は生きた心だからその心で、天地が生きてござる、天地が生きてござる、天地が生きてござると、繰り返してごらんなさい、生きた天地を自分の心に感ずる事が出来る。
そこから冷たい事も有難いなあと言うことがわかって来る。寒い事も有難いなあと言う事がわかって来る、えば熱がある、ああ生きておるおかげと言う実感が湧いて来る咳が出る、生きとるおかげだと言う事がわかる、理屈の上でです熱があるのも、生きとるしるしですよと言われても、成程そうだと思うけれども、今日私申します様なところ、冷たければ冷たいと実感する心が生きた心なのである、熱がある、例えばなら、四十度も熱があるとこうする、だから苦しい。
苦しいけれども、それは死んでない証拠だ、生きておる印しだとおもう、思うから熱が四十度あってもお礼を言う心がある、生きておる事に対するお礼の心が湧いてくる、そう言う心で願うからおかげになる、今日の御理解はもう何と言うですか実に神様をそこに感じとらせて貰うと言うか、神に会うそして会った時に願う心と言う、生きたものいわゆる暑いも寒いも感じない様な心でです、如何に天地に念じたところで、それは枯れた木が天地に手を差しのべて植わっておる様なものである、これでは伸び様がない。
そこで信心とは私どもの心が、生き生きとしてくるものを教える、その生き生きとしたこころの一番尊い心が信心の喜びである、その信心から生まれて来るその喜びの心、その喜びの心で神に念ずる、天地を拝む、生きたものと生きたものと出会うから、火花を散らす事になる、私どもと神様の間のこと、又はとの交流と言うことは、そう言う様な事だと思います。そこで私どもは絶えず自分の心がです、生き生きとして神様に縋れる姿勢をつくらせてて頂くと言う事になる。
又その事の精進が必要である、修業が必要である、そこから生き生きとした心が生まれて来る、朝参りでもなさる、そして外の冷気に触れる時に、ああ神様が生きておる証拠だと、その冷気から自分の心の中に、五体に肉体に感ずるならばです、もうあなたの心が生きて来た、そこに拍手して、本当に真っ暗闇の天地を拝まずにはおれなくなって来る。そう言う時にもう理屈じゃないです、天地と交流するものを感ずる、そして言葉に称える事、成程天地が生きてござる、天地が生きてござる。
今日も私の心が生き生きとして、その天地に通う生き方をさせて下さい、と言う事になるのです、どうぞ今日も一つおかげ頂かしてください、今日も商売が繁昌しますごと、お願いしますと言う事をその今日私が申します様な心でない心でです、祈ったところで願ったところで、それは枯れ木が天地に手を差し伸べておる様なものですから、神様とても伸ばし様がない、おかげのやり様がないと言う事になるのですそうでしょうが、枯れた木そこにそれが生きておればです。
天地がそれを一粒の種なら、種にしますと、それを芽を切らせて下さる事もできれば、枝に葉にして下さる事も出来れば、実りにしてくださる事もできれば、花にしてくださる事も出来る、私どもの願う心、今日は神に会おうと思えば、庭の口を外に出て見よ、空が神下が神、ははあ金光様の神様とはそう言う神様だなあと、分かっただけではいけん、それからこの家の中には人が居るか居ないかを、確かめるためにはまず門を叩いて見ねばいけない。今日のこの御理解から言うと、自分の心が生き生きとしとるかと。
言う事を例えば熱があるなら熱がある事によって、生きておる印しを自分で本当に感じなければいけない、冷たい寒い外に出た時にああ冷たい寒いなあと言うときに、天地が生き通しに生きてござるなあと感じる心それが生きた心、その生きた心で天地に対して願うのである。今日はだから金光教の神観と言うものだけでなくて、金光教で言う神様と言う神様はそう言う神様だけれども、その神様のおかげを頂かして貰うと言う。その神様の生きた働きを、自分の身の上に頂かせて頂くために。
私どもが生き生きとした信心をさして貰い。生き生きとした喜びを頂かして貰う、精進修業が必要であると言う事を申しました、同時にこの新しい金光大神御理解の中から、これを引用を聞いて頂いた訳ですけれども、非常に難しいところが御座いましたけれども。これは三燐亡とか金神のこちらが明いておると言った様な、そう言う生き方がです、金の神は親神じゃによってと言う事ですから。そう言う考え方がどの位御無礼になるか、お粗末になるかと言う事が教えてあると思うのです。
成程東西南北どちらへ向いても、とちらへ行っても天地の親神様の働きの中に在るんだと、それを私どもが人間心を使って、東はいかんの西は悪いの良いのと言う様な、考えは皆様の場合は有りますまいけども、それをまだ平気で言っている人もあります、そう言う考え方はいよいよ御無礼だから、そう言う事をわからせて下さろうとする働きが、やはりお気付きの一つもくださる程しの神様であるから。倒す事も出来るからまた起こすことも出来ると仰る様な風に言っておられます。
私どもの心の状態がですどうすれば生き生きとして来るかと、と言う事を修業である精進であると申しましたが成程生きた心で生きた天地に向かわなければ、いわゆる効果はないと言う事がわからなければ、心が生きておるとか、今生かそうとしている精進もない様になります。私共の心が何とはなしにだらっとしておる時はもう心が枯れかかっておるとき、本当にそれは疲れておってもきつかっても、今日も本当にへとへとする程しに、お使い廻しを頂いて、有難いと言う心が湧いてくる様な心を頂きたい。
くたくたに疲れる程しに今日はお使い廻しを頂いたと、お礼を申し上げる心を生きた心そう言う心でまた明日を願われる、又いろいろな事が願われる、そこに神様との交流が絶えず頂ける事になる、大変今日はまあ難しい事でしたけれども、リアルな頂き方とでも申しましょうか、非常に微妙な天地と私どもの関わり合いをです、理屈で聞けばすぐ分かるけれども、それを本当にそう言う関わり合いを身を以て実感出来れるために、と言った様な御理解でしたね。
どうぞ。